映画「死化粧師オロスコ」から現代社会を学ぶ

映画

はじめに

皆さんは、「世界で一番グロい」と言われている映画の存在をご存知でしょうか?

その名も、「死化粧師オロスコ」

過去にバンクーバー国際映画祭で受賞歴のある作品です。

”グロい”という言葉を聞いてホラー映画などを予想するかもしれませんが、今作品は死化粧師として淡々と仕事をこなしてゆくフロイラン・オロスコの作業風景を撮ったドキュメンタリー作品。

作り物ではないからこそリアリティがあり、グロさはもちろん、グロさではない部分でも圧巻されます。
また、実話だからこそ、オロスコを取り巻く環境やその国の情勢や現実についてもより詳しく知ることができました。

「世界で一番グロい」と称される映画であると同時に、

世界で起こっていた現実が最も分かりやすく表現された映画だと思います。

今まで歴史を勉強してこなかった方、視野を広げたい方には、ぜひ観ていただきたいです。

あらすじ

舞台は1995年、コロンビア。
首都サンタフェデボゴタの、大統領府からほど近いところにある、メディシナ・レガル(法医学鑑定所)を中心に葬儀屋が軒を連ねる界隈は、エル・カルトゥーチョ(火薬庫)と呼ばれ、ボゴタ中でも特に治安の悪い無法地帯。

麻薬、少女売春、銃器、殺人、サタニズム、あらゆる悪徳の巣窟であり、ジャンキー、ホームレス、ストリートチルドレンが集う場所です。

死体カメラマン・釣崎清隆さんがその地に足を踏み入れた時に出会ったのが、老人エンバーマーのフロイラン・オロスコ。

エンバーマーとは、葬儀専門の技術者や医学資格を有した医療従事者によって遺体を消毒、保存処理を施し必要に応じて修復する技法のこと。

欧米では土葬が基本とされているため、遺体から感染症の蔓延を防ぐことを目的としています。

また、遺体を遺族の前に見せる為に、生前のままの形に化粧する役目も含まれています。

釣崎さんはエンバーマーという職業自体に興味を持ち、また、コロンビアの血まみれの現代史を生き抜き、暴力に倒れた人々をエンバーマーとして数知れず弔ってきたオロスコという人間に対して強い関心を持ち、3年にもおよぶ長期取材を敢行。

人間の尊厳と猟奇を問う壮大な残酷ドキュメンタリーを作り上げました。

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オロスコの生きる時代から学ぶこと

映画の舞台となったコロンビアは、「世界で最も治安の悪い国」と称されるくらい秩序が乱れていて、犯罪が横行していました。

特に、オロスコが生きてきた時代はコロンビア内戦が勃発していました。

1948年から1958年の時代は、“ラ・ビオレンシア(暴力の時代)”と呼ばれる時代。
19世紀及び20世紀初頭、コロンビアの政治は自由党と民主党の二つの政党に支配されていて、意見の食い違いから暴力的な対立がしばしば起こっていました。

1948年4月9日、大統領選の第一候補であったホルヘ・エリエセル・ガイタン(自由党と共産党員が進めた農業労働改革運動から出た自由党の反対派)が、首都ボゴタの路上で暗殺されたことをきっかけに、自由党による民衆蜂起ボコタソが起こり、首都で大規模な暴力と略奪が引き起こされました。

ボゴタでは抵抗は鎮圧されていきましたが、いくつかの州では、散発的に武装農民蜂起が続きました。

自由党系農民を共産主義者と同様と見なした当時の大統領ゴメスは、こうした蜂起に暴力的弾圧で対処しました。 

警察部隊により弾圧されていた暴徒たちは、釈放後すぐに罪のない農民を殺し始め、それに対して、被害を被った農民たちも武器を手にすることに。武装した農民に対して政府は大規模な軍事攻撃をしかけ、ビジャリカ戦争が勃発しました。

この攻勢の中で、トリマ州で後のコロンビア革命軍となる武装自衛運動が結成されました。

オロスコは、武装自衛運動が結成されたトリマに生まれました。

彼が18歳の時、農民25万人による武装蜂起が勃発。

彼は軍に入隊して討伐に加わりましたが、トリマの町は農民に奪われてしまいます。

復讐の怒りに燃えたオロスコは除隊後、警官になって農民、自由党員を迫害しました。

それから9年後、オロスコは27歳のときに突如エンバーマーに転身。

それまで自ら手をかけて殺した者の数をはるかにしのぐ5万体もの遺体を、ほぼ毎日休まずに淡々と処理していきました。

彼のこなす仕事は、遺体の身体を洗ったり、鼻や口に綿や布を詰めたり、服を着せたり、化粧を施したりと、日本の湯灌業者がやるような作業に似ています。

なぜオロスコはエンバーマーに転身したのか。
彼は作中で、「給料がいいから」の一言だけを残しています。

今まで迫害してきた方々への償いの意味があるのかどうかはわかりません。

しかし、ラ・ビオレンシアの時代を生き抜き、多くの死を自らの手を持ってして目の当たりにしてきたからこそ、
そして仕事がなければ死ぬしかないと言っても過言ではないくらいの環境で生活をしているからこそ、

エンバーマーという仕事に対する熱量が淡々とした作業の中から感じられました。

監督・釣崎清隆さん

釣崎清隆さんのプロフィールはこちら。

1966年富山県生まれ。
AV監督を経て死体写真家となる。
1995年NGギャラリーにて初個展。世界各国の無法地帯や紛争地域を渡り歩き、これまで撮影した死体は1000体以上。主な著書に『ハードコア・ワークス』(NGP)、『死体に目が眩んで』(リトル ・モア)、『ファイト批評』(アイカワ・タケシ氏との共著/洋泉社)がある。釣崎は1995年にコロンビアはサンタフェデボゴタの無法地帯、カルトゥーチョのエンバーマー、オロスコに強い印象を受け、3年に渡って取材を敢行、血と暴力の本質にせまる問題作『死化粧師オロスコ』を完成させた。

釣崎さんが職を変えたきっかけは、表現の自由へのこだわりが強く、規制のかからない世界で勝負したいと思ったため。

加えて、

「単なる悪趣味を広げようとしているわけではありません。僕はアーティストとしてタブーなき表現の自由を訴えたいのです。『今はそんな時代じゃないからね』で済ませてはいけないと思いますね。表現の自由とは、神聖な権利だと思っています」

と、表現の自由を訴えたいという思いのもと、「死化粧師オロスコ」をはじめとする作品を撮り続けています。

「死化粧師オロスコ」は、ただグロい映画を撮りたかったのではなく、世界で最も危険と称される国で、奪われるだけ奪いつくされた後に、それでも人間に残った愛と尊厳を描きたいという思いのもと、制作されました。

 

釣崎さんの今作品に対する思いが書き綴られた公式HPはこちら。
死化粧師オロスコ

釣崎さんのインタビューはこちら。
『死化粧師オロスコ(完全版)』 釣崎清隆 インタビュー 第1回※全5回

釣崎さんの仕事に対する思いの詳細はこちら。
死体を撮り続けて25年。写真家・釣崎清隆がこだわる理由とは?

釣崎さんの書籍はこちら。(オロスコに関することが細かに記載されています)
死体に目が眩んで―世界残酷紀行

まとめ

釣崎さんはインタビューでこのように発言されています。

「昔はね、写真週刊誌には自殺した有名人の遺体の写真が載っていましたよね。子ども向けの学習副読本でも、戦争の写真として死体がたくさん掲載されていた。嫌でも視界に入る機会があったんです。ところが今はどうですか。世の中がうるさくなって、メディアも自主規制でしょ。社会全体がホワイトウォッシュ(漂白)されてしまって、誰にでも起きる、日常の延長である死というものを想像しにくくなっています」

(中略)

死は誰にもやってくるもの。その意味で死は日常です。

特に子どもに死を考えさせる機会を与えないのは問題だと思いますよ。

「もうそういう時代じゃないから」「いかがわしいもの、見てはいけないもの」で済ませていいんですかね。

「死化粧オロスコ」を観ることで、自分たちが生まれた頃に起こっていた世界の現状を知ることができました。

本作品が撮影された1990年代、日本の外では、街中で何人もの方々が殺されたり亡くなったりすることが日常茶飯事だったとは知る余地もありませんでした。

特に、例えばアメリカで起こった同時多発テロのことを知る機会があっても、コロンビアで起こっていた現実が報道されたり、勉強する機会はほぼなかったと言っても過言ではありません。

自分たちが生まれた頃から、自主規制や、手に入れられる情報を操作する風潮が、日本で芽生えていたのかもしれません。

そして、そのような現実を知る機会が、自主規制によって情報収集が阻まれている一面があることもわかり、

・自ら情報を手に入れて視野を広げること
・情報に惑わされず、いろんな視点から物事を捉え想像すること

の大切さも実感しました。

みなさんも、コロナの影響で自粛ムードな世間だからこそ、映画から世界を知る機会をぜひ作ってみてください。

めい

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元SE/現NEET、映像制作を勉強中。古着とダンスと美術館が好きです。 主に映画、たまに本から学んだことを発信していきます。 アートや文化から楽しく学び、得...

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